hello baby!まさかの3人子持ちに。

社会に出た時から、派遣とカメラマンのパラレルキャリアで生きてる私の、育児と仕事についてのブログです。今は、下駄屋のネットショップ担当、音楽教室の先生、家族写真カメラマンとして3つの顔を持ってます。

+4 あれから四年。

読み返すと変な文章ですが、個人的なブログなのでこのまま上げました。

 

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今年も3月11日がやってきた。

あれから4年。

 

ここ茨城も相当揺れたようで、墓石は全部ひっくり返っていた。

内陸なので津波の心配はなかったし、昔から住んでいる土地なので

液状化もなかった。

 

当時わたしは都内の市ヶ谷で仕事をしていて、6時間歩いて練馬の家に

帰ったのを良く覚えている。

中野サンプラザにはリクルートスーツの青年たちと、

演歌ファン風の中年女性が右往左往していた。

 

 

2011年3月11日の朝、地下鉄麹町駅から見た空が美しくて

たまたまiPodから流れて来た"Knockin' on Heaven's Door"を聞きながら

「自殺するならこんな晴れた日が良い」という一文を思い出したことを

4年経っても忘れることができない。

あの日食べたランチは、近くの居酒屋がやっている親子丼だったな。

 

3月末でランチ営業を終了するって話と

私も3月末で地元に帰るから、それまでに夜飲みに来たいな〜と

カウンター越しに馴染みの店主と話していて

結局行けなかったことも思い出す。

 

あの日から4年。

 

テレビの中で流される東北沿岸の映像をみて

みんなで声を失った休憩場所。

余震で外に逃げた先で見た、信号機がメリメリと生えてきたこと。

春になったら新婚旅行で、平泉に行こうねと話していて実現できていないこと。

 

 

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原発事故からも4年。

原発反対!母の声」みたいのを見ると心臓がギューっとなる。

福島から逃げるのに子どもを連れて新幹線に飛び乗ったとか、

放射能から逃げる為に子連れで移住したって話を聞くたびに

何とも言えない気持ちになる。

 

茨城で、関東で、東日本で子どもを産んだなんて信じられないと

責められているような、非難されているような、申し訳ないような…。

 

移住したお母さんも、逃げることが出来たお母さんも

それぞれ色んな葛藤があったと思うし

衝突もあったと思う。

それは良く分かっている。

 

それでも「私は泣きながらでも逃げた。そして反対する。」と声高に主張されると

なぜだか非難されているような気がしてしまう。

子どもを守ろうとしなかった母親なんだと、指されている気がしてしまう。

 

普段は極力見ないようにしているけど

FacebookTwitterで、

必ずしも自分の生活地域に近くない場所に住む友人が

ふと思い出したようにタイムラインに流してくるのが311だ。

 

母親として感動した…という体で。

 

私は放射能が怖かった。子どもはこんな日本で産めないと思ていた。

しかし、授かった命を断ち切ることは出来なかった。

テレビの中とはいえ、あんなにもたくさんの命が奪われた現場を

もっと生きたかったと叫ぶ波間をみて、命を捨てられるはずがない。

 

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あれから4年たって、子どもが1歳半になる。

お腹の中から数えて2年を超える。

震災後の半分は子どもと一緒に居た時間だ。

 

春から本格的に写真の仕事をしようと思った。

あれから4年たって、私自身が母になった。

そして、生まれてくる命、いつか消えてしまう命を

撮りたいと思うようになったからだ。

 

命を撮りたい。育てる人を撮りたい。

 

 

 

新年よりも、新年度よりも

未来のことを真剣に考える日が、3月11日になっていると思う。

 

 

徒然なるままに。